「目から、世界を知る。」
― よく見える目が、見ていたもの。―

刺繍作家として活動していると、
マルシェや展示会で作品を見てくださった方から、
とてもよく言われることがあります。
「こんな細かいもの、よく見えるわねー」
「私の目じゃ、もう作れないわ」
「肩、凝ったりしないの?」
細かい作業だからこそ、
皆さん「目」のことをお話しされます。
そんな私はというと。
昔から、とても目が良い人でした。
でも同時に、
個性的な目の持ち主でもあります。
「斜位」です。
斜位とは、両目の使い方に不具合がある目です。
斜位には「外斜位」と「内斜位」があって、
私は外斜位。
簡単にいうと、
目が外側へ向かいやすく、
それを自分の筋肉や意識で、
無意識に調整しながら「見る」ことをしている目。
私は昔から視力そのものはとても良くて、
斜位が気になって眼科へ行っても、
「よく見えているから」
と、特に何かをすることもなく、ここまできました。
確かに、見えている。
とてもよく、見えている。
でも最近になって、
「よく見える」ということと、
「楽に見える」ということは、
もしかしたら全然違うのかもしれない。
そして、
「よく見える」ということが、
その人にとっての最善であるとは限らないと思うのです。
生まれてこのかた、
この目でしか世界を見たことがありません。
誰かと目を交換することなんてできないから、
いわゆる「普通」の見え方と
自分の見え方を比べることもできない。
そもそも誰基準の「普通」なのかさえ、わからないのです。
だから、
「何がどう大変なの?」と聞かれても、
ずっと上手く説明することができませんでした。
だって、見えてはいるのです。
けれど私には昔から、
ちょっと不思議な「疲れ」がありました。
たとえば、人混み。
目の前にいる人だけではなく、
横にいる人も、
少し後ろにいる人の気配までも、
ずっと拾っているような感覚があります。
満員電車なんて、
ものすごい情報量。
人。
人。
人。
誰かが動いたこと。
視界の端を横切ったもの。
後ろに立つ人の気配。
見ようとしているわけではないのに、
いちいち拾ってしまう。
これが、とっても疲れてしまうのです。
先日、
久しぶりに一人で東京へ行きました。
せっかくなので、
ちょっとした実験をしてみました。
いつもなら人酔いしてしまう街中。
人で溢れかえった駅。
ぎゅうぎゅうの電車。
そこで、あるメガネをかけてみる…。
すると、不思議でした。
なんだか、
自分の周りに薄いバリアができたような。
結界のようなものが、張られたような。
人が減るわけでも、
音が消えるわけでもない。
なのに、スン……と、内側が静かになる感覚。
もしかして私は今まで、
必要以上にたくさんのものを
ずっと「見て」いたのだろうか…、と。
子ども達が、学校から持ち帰ってくるプリントでも、
似たようなことがあります。
忙しくて、ものすごく疲れている日の夕方。
お便りを一生懸命読んでいるのに、
内容がまったく頭に入ってこない…。
文字は読めているんです。
一文字ずつ、ちゃんと見えている。
なのに、
このプリントが結局何を伝えたいのかが、わからない。
そんなことがよくあります。
そして、さらに疲れてくると、
自分でも斜位をはっきりと感じます。
目をうまくコントロールできなくなっていく。
外へ向かおうとする目を
自分で寄せ続けることがますます難しくなると、
どんなことにも過敏になって、
もっと疲れると、
目の奥から頭が痛くなってくる。
今まで私は、それを全部ひっくるめて、
「疲れているから」で片付けてきたのです。
ここからは、
医学的なお話ではなく、
あくまで私自身を観察してきた中での考察です。
私は昔から自分の目が気になっていたからなのか、
人とお話ししていて、
「あ、この方も斜位っぽいな」と感じると、
ついその方のタイプまで見てしまいます。
そこで感じるのが、外斜位の人って、
周りをよく見ている人が多い気がする、ということ。
周りの変化によく気づく。
気配りができる。
いろんなところに目が届く。
でも、それを逆から見ると、
周りが気になってしまう。
いろんなものが目に入って、気が散りやすい。
必要のない情報まで拾ってしまいやすい。
内斜位には、
また違う世界の捉え方があるように感じています。
もちろん、
どちらが良いとか、悪いとかではありません。
ただ、
目の使い方が違えば、
同じ場所にいて、同じ景色を見ていても
受け取っている世界は、少し違うのかもしれない…。
そんな風に考えるようになりました。
思えば私は、
ずっと「情報量の多いもの」が苦手でした。
人混み。
テレビから次々に流れてくるニュース。
たくさんの音。
SNS。
いろんなものが同時に存在する場所。
そういうものに触れていると、
ものすごく疲れてしまう。
昔は、
自分がなぜ疲れるのかもわからなかったけれど、
「私は、たくさんの情報を一度に受け取ることが苦手なんだ」
と認識して、
自分で情報量を調整するようになったのは、
実はつい最近のことです。
そんな中で出逢ったのが、
チャクラグラスでした。
チャクラグラスを知ったのは、4年ほど前。
ずっと気になっていました。
でも、
子ども3人を連れて電車に乗って、
人混みの東京へ突っ込んでいく。
私には、それだけでなかなかの大仕事です。
気になりながらも、
ずっと一歩を踏み出せずにいました。
そんな時。
チャクラグラス代表の與良だいちさんが
山梨に来てくださることを知りました。
そうして私は、
チャクラグラスを作ることになりました。
実際に作ってみて、
最初に感じたこと…。
それは、
これはメガネを作るだけじゃない。
自分を知ることなんだ…。
ということでした。
私は、目を寄せることが苦手な目を持っている。
それを自分でもずっと知っていた。
そんな私が、大変な目のはずなのに
なぜ刺繍が好きになったのだろう。
あんなに小さな場所を見つめて、
一針、一針、
細かなものを作り続けている。
そして、
なぜ私は、刺繍をすると整うのだろう…。
逆に、なぜ「整う」と言われる瞑想が、
私はあんなにも苦手なのだろう。
今まで別々だと思っていたことが、
「目」という入り口から見てみると、
少しずつ一本の糸で繋がっていきました。
目は、
ただ世界を見るためのものではなくて。
もしかしたら、
どこを見るのか。
どこまで見るのか。
何を受け取るのか。
そんな、
その人の「世界の捉え方」にまで
繋がっているのかもしれません。
チャクラグラスを初めて実際に着用した時、
私はそれを、
自分の身体で体感することになりました。
この話が、
とっても深くて。
とっても面白くて。
書き始めると、
ものすごーく長くなってしまいそうなので。
初めてチャクラグラスをかけた時に何が起きたのか。
刺繍と私の目の、不思議な関係。
チャクラグラスを日々使ってみてどうだったのか。
特徴の「カラー」によって何を感じたのか。
生活の中にある小さな躓きや疲れを、
どうコントロールできるようになったのか。
様々な気付きについては
また、次のお話で。
チャクラグラスはこちら
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