「着地の音」
― 静けさの中で息をする―
終わりのあとに残った音
すべてが、
突然、終わりました。
あれほど
終わらないと思っていた日々が、
ある朝、
嘘みたいに静かになっていたのです。
風が止み、
時間さえも、
どこか遠くで鳴りを潜めているようでした。
私はずっと、
「落ち着きたい」と願っていました。
それはきっと、
あたたかくて、安心できる、
やさしいゴールのようなものだと
そう思っていたのです。
望んでいたはずの場所
けれど、
実際に訪れたのは、
思っていたよりも、
ずっと深い静けさでした。
あまりにも音がなくて、
あまりにも何も起こらなくて、
私は少しだけ、
戸惑っていました。
落ち着いた、というより、
落ちてきて、
ただ着いた。
そんな感覚でした。
走ることをやめたら、
次に何をすればいいのかが、
わからなくなってしまったのです。
息の仕方を忘れた場所
いざ静けさが訪れると、
どうやって息をすればいいのか、
少しだけ、
わからなくなっていました。
走り続けていた心が、
急に、
どこにも向かわなくなりました。
焦げついた感情の残り香だけが、
胸の奥で、
くすぶっていました。
走らなくてよくなる、
ということの意味を、
私はまだ、
理解できていなかったのかもしれません。
それでも、世界は呼んでいた
それでも、
空の色が少しだけ
青く見える様な気がしました。
窓の外の風に、
微かな金木犀の香りを感じました。
世界が、もう一度、
私の五感を
呼び戻そうとしているかのように…。
楽になったはずなのに、
身体の奥には、
まだ少しだけ、重さが残っていました。
その重さの向こうで、
何かが、ゆっくりと、
目を覚まし始めていました。
それは、戻っていく感覚
私は、
ただ、その気配の中で
息をしていました。
色も、香りも、
少しずつ、
私の世界に還ってくる…。
気づけば、それは、
長い時間を掛けて失っていった
“自分自身”に戻っていくような、
そんな感覚でもありました。
大人になり、
結婚して、
母になって…
何者かになっていく時間の中で、
たくさんの役割を着込んできました。
そして今、
それらを少しずつ、
脱いでいく時が来たのだと思いました。
握り締めてきた
たくさんのものを、
抱え込んできた
たくさんの想いを、
手放していく…。
手放す程に還ってくる
“私”の感覚。
“私”の輪郭。
葉が地面に還る、
僅かな音…。
それが、
私の“着地の音”でした。

∗atelier eni 92∗

